幻の「石神井ホテル」に迫る! かつて石神井公園にあったホテルの数奇な運命とは…⁉︎ 【2017年11月号の記事を再編集 】

自然に囲まれ、天然の湧水池として知られる石神井公園の三宝寺池。そのほとりに、かつて数奇な運命をたどったホテルがあったと聞き、さっそくKacce調査隊出動!  練馬育ちで関東中世史が得意という、歴史研究家・郷土史家の葛城明彦さんにお話をお聞きしました。※この記事は、月刊Kacce2017年11月号に掲載した記事を再編集したものです。新たに解明された事実があってもこの記事には反映されておりませんのでご了承ください。

大正時代、三宝寺池にできた旅館と料亭

石神井ホテルの歴史の始まりは、今から約100年前にさかのぼります。 1915(大正4)年、池袋から飯能まで武蔵野鉄道(現・西武池袋線)が開通。石神井駅(現・石神井公園駅)周辺は、日帰り行楽地として観光開発が進み、2年後の1917(大正6)年、三宝寺池の南側に、旅館「武蔵野館」と、料亭「豊島館」が開業します。どちらも武蔵野鉄道の直営で、いかに観光に力を入れていたかがわかりますね。 今までに公表されていた資料では、2館合わせて「石神井ホテル」と呼ばれていましたが、新たな証言や研究によって、旅館「武蔵野館」だけが、のちに「石神井ホテル」になったことがわかりました。

昭和13年の石神井公園エリアの空撮写真。右下に並ぶ建物が豊島館(上)と石神井ホテル(下)。三宝寺池の橋を渡ったところに100mプールがあり、その上方に石神井池(ボート池)が見えます 〈練馬区所蔵〉

さらに、翌年の1918(大正7)年には、現在「水辺観察園」がある場所に、日本初の100mプール「府立第四公衆遊泳場」がオープンしました。100年前につくられ、戦時中まであったという巨大プール。湧水を利用していたため、かなり冷たかったという話です。
ちなみに、現在のボート池は昭和9年に人工的に造られたものなので、この頃はまだありません。

大正12年測量、昭和12年改測の帝都地形図。池の南側に両館合わせて「石神井ホテル」とありますが、実際には左が石神井ホテルで、右が豊島館 〈発行元:之潮〉

豊島館は歴史に残る場所だった?!

実は、料亭「豊島館」は歴史的に大きな意味をもつ場所なのです。都心から離れた立地を利用してか、1923(大正12)年、当時は地下組織だった日本共産党の大会がここで行われ、日本共産党綱領草案が起草された地として知られています。
1975(昭和50)年の取り壊しの前日には共産党員が30名ほど集まり、追悼集会が行われたそうです。

また、昭和初期には、高浜虚子など俳句結社「ホトトギス」のメンバーたちが訪れ、食事をしたことも。
豊島館には最後まで水道が引かれることはありませんでしたが、玄関前には井戸があり、近所では「おいしい水」と評判だったようです。

昭和30年代前半頃の豊島館〈石神井公園ふるさと文化館蔵〉

時代に翻弄されて

1934(昭和9)年になると、武蔵野鉄道の経営不振により「武蔵野館」と「豊島館」は個人に売却されます。

「武蔵野館」は洋風に装いを変えて「石神井ホテル」と改称。この頃は、天才バイオリニスト少女として人気のあった諏訪根自子(すわねじこ)が住んでいたり、隣接する茶店「見晴亭(みはらしてい)」に多くの文士が訪れたりと、華やかな話題には事欠かないスポットでした。檀一雄が仲間と共に「見晴亭」を訪れ、その際に太宰治が縁台で酒をあおっていた、なんていう逸話も残っています。

ところが、1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦により、状況は一変! 観光客の激減で深刻な経営難に陥ります。

そんな時、保谷硝子(現在のHOYA)が軍用望遠鏡の増産を強いられることになり、石神井に住んでいた保谷硝子の社長が「豊島館」を買い取って社員寮にします。
しかし、1943(昭和18)年に成増飛行場ができたことに伴い、今度は両館とも陸軍に接収され、1年ほどは慰安所として使われる運命に…。

時代の波に翻弄され、変遷を余儀なくされた「石神井ホテル」と「豊島館」は、戦争によって新たな運命を背負うことになったのです。
戦争といえば、現在、ボート池に面した場所に野外ステージと客席がありますが、なんと1945(昭和20)年8月8日に受けた空襲で、1トン爆弾が炸裂してできた穴をそのまま活かして造られたとのこと。地元の歴史をいろいろ知ると、ただ散歩をするだけでも想像力がかき立てられますね。

戦後の経緯

戦後まもなく、「豊島館」はアパートとなり、「石神井ホテル」は営業を再開。

昭和22・23年には作家の檀一雄が2年連続で「石神井ホテル」に逗留し、執筆活動をしていました。1948(昭和23)年6月14日の朝、檀一雄が太宰治の入水自殺のニュースを新聞で知った場所としても有名です。

その翌年、「石神井アパート」と改称して一般向けのアパートとなり、昭和30年代には芸術家たちが住んでいたこともありましたが、社員寮や合宿所、資材置き場などの変遷を経て、ついに老朽化のため、豊島館は1975(昭和50)年、石神井アパートは1977(昭和52)年に取り壊されることとなりました。

この頃、石神井公園で遊んでいた世代の方は、“お化け屋敷”のような古い建物があったことを覚えているかもしれませんね。

取り壊し直前頃(昭和52年)の旧・石神井ホテル(この時点では、石神井アパート)〈田口政典氏撮影〉

真実の歴史をたぐり寄せる面白さ

今はなき石神井ホテルの歴史を丹念に調べている葛城さん。新たな真実を見つけ、史実を書き換える役割を担うようになった経緯とは…?
「平成28年の春、地元の情報紙に、歴史秘話として石神井ホテルについて寄稿したのがきっかけです。まさかそこから大きく歴史が動くことになるとは思ってもみませんでした」

ネット上にアップされたその記事を見て、佐渡島の女性から1本のメールが届いたのです。なんと、その人は豊島館の経営者の孫にあたる人。91才の母親(つまり経営者の娘さん)が持っていた当時の資料や写真が葛城さんの元に届き、当時の住民や関係者も紹介してもらうことができたそうです。
「それまではほとんど資料が残っていないと言われていたので、設計図や権利書まで出てきて調べていくうち、世に出ていた情報のうち半分くらいが間違っていたことがわかったんです。衝撃的でした。正しい史実に直すのが自分の使命だと強く感じました」と、葛城さんは話します。

「建物が取り壊されたのは、ほんの40年前のことなのに、記録や写真が残っていないと、誤った情報のままで通説になってしまう。“残らない歴史”があることを痛感しました」

今回の経験から、やみくもに何でも資料を集めるのはやめたそう。ネット上では、間違った情報がブログなどで引用されて広まり、そのまま史実として定着している可能性もあるからです。
「この経験のおかげで、真実の歴史を自分でたぐり寄せる本当の面白さがわかりました。これぞ歴史研究の醍醐味ですね♪ ただ資料を読んで暗記するのが歴史ではないんです」

石神井ホテル跡にて

ほとんど奇跡と言っていいような経緯で、この1年半の間に真実が判明した石神井ホテルの歴史。
「石神井の歴史はとても興味深いですよ。小さな窓から日本の歴史が全て見える…そんな印象です」

現在の豊島館跡。三宝寺池南側の遊歩道から階段で少し上がったところにある散歩道

取材後、石神井公園の三宝寺池へ。40年前まで本当にここに石神井ホテルや豊島館があったのか?と思うくらい、跡形もなくひっそりと静かな散歩道。
日が落ちる頃、落ち葉を踏みしめながら歩いていると、ふと石神井ホテルの時代にタイムスリップしてしまいそうな、そんな不思議な気持ちにとらわれました。

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